メストレ・パスチーニャ

Mestre Pastinha
メストレ・パスチーニャ

カポエイラアンゴラの偉大なメストレ

カポエイラCDO東京 > カポエイラとは > Mestre Pastinha (メストレ・パスチーニャ)

Vicente Ferreira Pastinha (メストレ・パスチーニャ)は、1889年4月5日にバイーア州サルバドールで生まれた。

彼がカポエイラと出会ったのは、8歳の時であった。
当時、パスチーニャは、近所に住む年齢も体格も上の少年にいじめられていたが、ある日それを見たベネディトという男は、パスチーニャにカポエイラを教えた。
それにより見事パスチーニャがいじめていた少年を打ち負かし、さらにはパスチーニャを敬うようにまでなった。ベネディトの元では、さらに3年間カポエイラを習っていた。

カポエイラ アンゴラの代表

1941年、パスチーニャは、アベヘ(後のパスチーニャの生徒)の招きにより、当時一流のカポエイリスタが集まるホーダ(アベヘは、当時すでにそのホーダで知られた存在であった)へ参加した。
この時パスチーニャは、ホーダに居たメストレにカポエイラ アンゴラの代表となるよう要請され、翌1942年、初のカポエイラ アンゴラの教室(Centro Esportivo de Capoeira Angola)をペロリーニョに開くことになった。

生徒たちは、黒い長ズボンと黄色いTシャツ(この色の組み合わせは、彼が好きだったサッカーチーム、Ypirangaに合わせたためによる)のユニフォームを身に付けたが、これが現在もアンゴラグループの一部で同じ組み合わせをする理由となった。

小柄な体にも関わらずカポエイラでは圧倒的で、他のカポエイリスタは決して彼にかなわなかった。

その存在感と、たぐい稀な知性を備えたカポエイラアンゴラ界の天才は、栄光に包まれており、動きだけでなく、絵や音楽、哲学の分野でも優れ、多くの文化人とも交流があった。

パスチーニャは世界中を旅し、カポエイラを広める事に大きな役割を担い、さらには彼と一部の生徒(ジョン・グランジ、ガトー等)は、アフリカのセネガルで開催された第一回黒人芸術国際フェスティバルへ、ブラジルからの派遣団の一員として参加した。

後年のパスチーニャ

カポエイラでの栄光とは対照的に経済的には困難が続き、カポエイラを続けるためパスチーニャはカポエイリスタとして以外にも、靴磨き、仕立屋、炭鉱労働者、カジノのガードマン、サルバドール港で港湾労働者としても働いていた。

それにも関わらず、ペロリーニョの彼のアカデミアは幾度となく困難に陥った。
最終的には、改装のため一時的な建物からの立ち退きという政府の約束だったにも関わらず、その場所はレストランに変更されてしまい、病気のため盲目になりつつあったパスチーニャは、失意の内にアカデミアを閉鎖せざるを得なくなった。

無職となった彼は、彼の妻が売るアカラジェ(バイーアの代表的な食べ物)の僅かな収入だけが頼りの生活を余儀なくされた。

盲目で半身が麻痺した状態ながらも1981年4月12日に最後のジョゴをしたことが伝えられている。

その生涯をカポエイラに捧げた天才は市の養老施設で1981年11月13日、92歳でこの世を去った。

 

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