メストレ・ビンバとは、カポエイラ ヘジョナウの創始者。本名、Manuel dos Reis Machado (1899-1974)、サルバドール出身。彼はカポエイラ・ヘジョナウという新しいスタイルのカポエイラを創始し、発展させつつ、カポエイラの合法化に貢献し世界に普及させた。カポエイラを格闘技や護身術として再定義することで、教育や社会貢献の手段として使った点も特筆すべき功績である。現代まで続くカポエイラの発展に多大な影響を与えた傑出した人物。
はじめに
この記事は、ブラジルという国でカポエイラという文化を作った人の一人、メストレ・ビンバについての伝記である。カポエイラとは、ダンスや音楽、格闘技を組み合わせた独自の芸術。メストレ・ビンバは、1899年11月23日にサルヴァドールという都市で生まれた。彼の本名はマヌエル・ドス・レイス・マシャドで、ビンバというあだ名は母親が出産前にした賭けに由来する。彼は子どものころから父親からバトゥーキというアフリカ起源の格闘技を教わり、12歳でカポエイラを始めた。彼は様々な職業に就いたが、主な仕事はカポエイリスタ(カポエイラの達人)だった。
メストレ・ビンバは、カポエイラの歴史において重要な役割を果たした。彼は、伝統的なカポエイラに自分が考えた動きやバトゥーキを加えて、カポエイラ・ヘジオナウという新しい流派を作った。彼はまた、カポエイラを教えるための最初の方法論を考案し、1920年代にはブラジル政府から公式に認可された最初のカポエイラ学校を開いた。彼はカポエイラを単なる民俗芸能ではなく、効果的な武術や教育手段として普及させた。
この伝記では、メストレ・ビンバの生涯と業績を時系列に沿って詳しく紹介していく。彼がどのようにしてカポエイラ・ヘジオナウを創始し、発展させたかを分析する。また、彼が表現した思想や信念、理念や理想、哲学や教えなどを明確に示す。そして、彼が現代社会に与えた影響や評価などをまとめる。
この伝記の目的は、メストレ・ビンバの人物像や魅力を最大限に引き出すこと。また、カポエイラの歴史や文化に興味を持っている読者にとって有益で興味深い情報を提供することである。さらに、カポエイラの実践者や教育者にとって参考になる知識や教訓を伝える。
メストレ・ビンバの生い立ち
子供時代
メストレ・ビンバは、ブラジルのサルヴァドールという都市で生まれた。彼の両親はアフリカ系の人々で、父親は船乗り、母親は洗濯婦だった。彼は8人兄弟の末っ子だったが、一番目立つ存在だった。彼はとても活発で好奇心旺盛な子どもで、学校よりも遊びやスポーツに夢中だった。彼はサッカーや水泳、ボクシングなどに興味を持ったが、一番好きだったのは父親から教わったバトゥーキという格闘技だった。バトゥーキとは、膝や足で相手を倒すアフリカ起源の武術で、音楽や歌に合わせて行われる。ビンバはこのバトゥーキの才能を発揮し、地元のチャンピオンになった。
カポエイラとの出会い
12歳のとき、ビンバはカポエイラと出会った。カポエイラとは、アフリカ系奴隷が発祥したダンスや音楽、格闘技を融合させたブラジル独自の文化。当時のカポエイラは、警察に取り締まられる危険なものとされていたが、ビンバはその魅力に惹かれた。彼はベンチーニョというカポエイリスタ(カポエイラの達人)に弟子入りし、伝統的なカポエイラ(アンゴラ)を学び始めた。彼はカポエイラの動きやリズム、歌や楽器などを素早く覚え、すぐに上達した。彼はカポエイラのホーダ(輪)に参加し、他のカポエイリスタと対決した。彼はその中でも目立つ存在になった。
カポエイラ学校の開始
18歳になると、ビンバは自分の家を改造して最初のカポエイラ学校を作った。それまでは路上や広場などで練習することが多かったカポエイラだが、ビンバは自分の道場に生徒を集めて教えるようになった。彼はまだヘジオナウという新しいスタイルを考え出していなかった。彼は伝統的なカポエイラを基礎として教えていたが、自分なりの工夫や改良も加えていた。彼の教え方や動き方は他のメストレ(師匠)たちと違っていた。彼の生徒たちは白人や黒人、貧しい人や裕福な人など様々な背景の人々だったが、みんなビンバに憧れていた。
カポエイラ・ヘジョナウの始まり
このようにしてビンバはカポエイラ界に名を知られるようになったが、それだけでは満足しなかった。彼はカポエイラが単なる遊びや娯楽ではなく、効果的な武術や教育手段として認められることを望んだ。彼はカポエイラに新しい息吹を吹き込むことを決意した。彼は自分が学んだカポエイラやバトゥーキだけでなく、他の格闘技や武術も研究した。彼はそれらの要素を組み合わせて、カポエイラ・ヘジオナウという新しいスタイルを作り出した。彼はそのスタイルを広めるために、様々な挑戦や試練に立ち向かった。それが彼の活躍の始まりだった。
カポエイラ ヘジョナウの成り立ち
前述した通り、彼が18歳になった頃から、奴隷達による抵抗手段としての格闘技ではなく、民俗芸能化しつつあった当時のカポエイラに疑問を持ち始め、以前の実戦的要素やバトゥーキと呼ばれる別の格闘技、さらには自らが考案した技を含めて、後のカポエイラ ヘジョナウの下地が作られていった。
1928年、ビンバがバイーア州の官邸で州知事を前に行ったカポエイラのパフォーマンスにより、カポエイラの文化的価値が認められ、1890年より続いていたカポエイラの違法化が解かれた。
1932年、ビンバは史上初となるカポエイラ道場をサルバドールに設立し、それまでストリートでしか行われることがなく地位の低かったカポエイラを、習い事の一つとして昇華させ、世間からの認識を改めさせることに成功した。
彼はその生徒には、模範となるよう様々な要求をした。その中には、白い綺麗なユニフォームを着用する事、そのレベルに応じ下級生に対しての指導や、日常の振る舞いに留意する事などがある。
その結果、医者や弁護士、政府関係者など、中流階級以上の人々や、それまで除外されていた女性までもが彼のアカデミアでカポエイラを始める事となり、それはまたビンバをサポートする強力な後ろ盾となった。
カポエイラ ヘジョナウの完成
1936年、ビンバはあらゆる格闘家からの挑戦を受け付け、4回の試合の結果全勝し、彼のカポエイラ ヘジョナウの有効性を証明した。
さらに1937年、ブラジル大統領前で披露したカポエイラのパフォーマンスにより、全国で教育のためにカポエイラを指導する承認を獲得したのである。
1942年、彼はふたつ目となるカポエイラ道場をサルバドールのテヘーロ ジ ジェスス広場に繋がる路地に設立した。
この道場は後に、ビンバが移住する際売りに出されたところ彼の弟子の一人が買い取り、現在もなお、さらにその弟子により運営されている。
尚、現在、よりビンバが考案した当時のカポエイラヘジョナウに忠実な形としては、サルバドールの別の道場で ビンバの実子により受け継がれている。
カポエイラ・ヘジョナウの伝統と文化
この章では、メストレ・ビンバが自分のカポエイラ教室(アカデミア)で採用したルールや原則、伝統、方法についての解説をする。ビンバはカポエイラが効果的な武術として復活することを目指し、民族舞踊になりつつあっったカポエイラを古来の実戦的な格闘技として取り戻し、またバトゥーキという別の格闘技の要素を融合させたりした。メストレ・ビンバが、カポエイラ教室の開設や、初めてカポエイラを教えるための体系的な教授法を作った点は大きな功績。これがカポエイラ・ヘジョナウの始まりであった。
メストレ・ビンバは、カポエイラには護身武術としての並外れた価値があると強く信じており、そのため、体系的な方法でカポエイラの学習を発展させることに努めたのは前述の通り。具体的には「戒め」、「原則」、「伝統」を取り入れたカポエイラの指導法を開発。ここからはそれぞれの内容を解説する。
メストレ・ビンバの戒め
- 喫煙や飲酒をやめること。それらはプレイヤーのパフォーマンスに悪影響を及ぼす
- 自分の進歩を友人に見せびらかすことを避けること。驚きは戦闘での最良の味方である
- トレーニング中に会話することを避け、代わりに見て学ぶこと
- 常にジンガをすること
- 基礎(フンダメント)を毎日練習すること
- 体をリラックスさせること
- クラスでは集中すること
- ホーダで「捕まる」方が、ストリートで捕まるよりも良い
- 相手に近づくことを恐れないこと。近くにいればいるほど、より良く学べる
- 学生は学校で良い成績を維持するか、就職すること
メストレ・ビンバの原則
- 常にジンガ(戦闘中は常に動き続けること)
- 常に避ける(相手の攻撃から逃げること)
- すべての動きには目的がある(攻撃と対応する防御の動き)
- 姿勢を安定させること(アクロバットの多用は隙につながる)
- ビリンバウが決めるリズムに従ってプレイすること
- 常にパートナーに近づいてプレイすること
- プレイヤーが攻撃を防ぐことができない場合、そのプレイヤーを尊重すること
- 相手の身体的・道徳的な完全性を守ること(強い者が弱い者を守る)
メストレ・ビンバの伝統や儀式
- 初心者の生徒やプレイヤーを訓練するために椅子が使われた
- チャランガはカポエイラのオーケストラであり、ベリンバウとパンデイロ(タンバリン)二つで構成されていた
- 歌(クアドラやコヒード)、ビンバが作曲したゲームに合わせて歌う歌
- バチザード(カポエイラ的な洗礼の儀式)
- 入学試験(カポエイラの動きで行う身体テストで、生徒の能力を判断する)
- 基本的な17のカポエイラの攻撃と防御の動きのシークエンス(ルーティン)
- ゲームの異なるリズムの練習
- 特定の動き:トラウマタイジング(打撃)、プロジェクション(投げ)、コネクテッド(連続)、アンバランシング(崩し)
- シントゥラ・デスプレザーダ(上級生が練習する第二のシークエンス)
- フォーマトゥーラ(カポエイラ教師の卒業)
- エスペシアリザサオとエンボスカダ(特別な上級試験)
メストレ・ビンバの活躍
世間からの反発
メストレ・ビンバは、カポエイラ・ヘジョナウという新しいスタイルを作り出したが、それを広めるのは簡単ではなかった。彼はまず、カポエイラの伝統を守る人々から反発を受けた。彼らは、ビンバがカポエイラに他の格闘技や武術を混ぜたことや、カポエイラの動きやリズムを変えたことに不満だった。彼らはビンバのカポエイラを偽物だと言って、彼に挑戦した。ビンバは彼らの挑戦を受けて、カポエイラのホーダで対決した。彼は自分のカポエイラ・ヘジョナウの優位性を証明するために、彼らに圧倒的な勝利を収めた。彼はその様子を写真に撮って、自分の道場に貼った。
カポエイラの地位向上
ビンバは次に、カポエイラが違法で危険なものと見なされていた当時の社会や政府と闘った。彼はカポエイラがブラジルの文化やアイデンティティの一部であることや、カポエイラが健康や教育にも良いことを訴えた。彼は自分の道場にブラジル国旗を掲げて、カポエイラに愛国心を持たせた。彼は自分の生徒に白い制服を着せて、カポエイラに規律と清潔さを持たせた。彼は自分のカポエイラ・ヘジオナウのデモンストレーションやパフォーマンスを公開して、カポエイラに美しさと芸術性を持たせた。彼はこれらの努力で、カポエイラが合法化されることに大きく貢献した。
カポエイラの社会貢献
ビンバはさらに、カポエイラを教育や社会貢献の手段として使った。彼は自分の道場で多くの生徒を教えたが、その中には貧しい人々や孤児や犯罪者などもいた。彼は彼らにカポエイラだけでなく、読み書きや算数や歴史なども教えた。彼は彼らに自尊心や自信や責任感なども教えた。彼は彼らに仕事や家族や友人なども紹介した。彼は彼らの人生を変えることができた。彼はまた、ブラジル軍や警察などにもカポエイラ・ヘジオナウを教えて、国家的な防衛力や治安力にも貢献した。
カポエイラの世界進出
このようにしてビンバはカポエイラ・ヘジオナウを広めていったが、それだけでは飽き足らなかった。彼はカポエイラ・ヘジオナウをブラジルだけでなく、世界中に知らせることを目指した。彼は自分の生徒や仲間とともに、ブラジル国内や海外の様々な場所でカポエイラ・ヘジオナウのショーを行った。彼は新聞や雑誌やラジオなどのメディアにも登場して、カポエイラ・ヘジオナウの魅力を伝えた。彼はカポエイラ・ヘジオナウの名声と人気を高めることに成功した。彼はカポエイラ・ヘジオナウの父と呼ばれるようになった。
晩年
悲しい晩年
メストレ・ビンバは、カポエイラ・ヘジオナウを世界に広めることに成功したが、その後も彼の人生は平穏ではなかった。彼はカポエイラの発展のために、政治や社会との関係を築こうとしたが、多くの困難や反対に遭った。彼はカポエイラの教育や普及に関する法律や規制を作ろうとしたが、実現しなかった。彼はカポエイラの国際的な認知や評価を得ようとしたが、十分に受け入れられなかった。彼はカポエイラの伝統や文化を守ろうとしたが、商業化や変質化に抵抗できなかった。彼はカポエイラのメストレや生徒たちとの絆を深めようとしたが、内部の対立や裏切りに苦しめられた。
移住
メストレ・ビンバは、これらの問題に対処するために、サルヴァドールから離れてゴイアニアという都市に移住した。しかし、実際に到着してみると、そちらでも当初と食い違う条件に失望したものの、彼はそこで新しいカポエイラ学校を開いて、カポエイラ・ヘジオナウを教え続けた。カポエイラの技術や知識を伝えた彼は、最後まで自分の信念や理想を貫き、カポエイラの精神を守った。
逝去
メストレ・ビンバは、1974年2月5日にゴイアニアで亡くなった。彼は74歳だった。彼の死因は心臓発作だと言われているが、確かなことはわからない。彼の遺体はサルヴァドールに運ばれて埋葬された。彼の葬儀には多くの人々が参列し、彼への敬意や感謝を表した。彼の墓石には「カポエイラ・ヘジオナウの父」と刻まれている。
貢献
メストレ・ビンバは、カポエイラ界において最も尊敬される人物の一人である。彼はカポエイラ・ヘジオナウという新しいスタイルを創始し、発展させた。彼はカポエイラを合法化し、普及させた。彼はカポエイラを教育や社会貢献の手段として使った。彼はカポエイラをブラジルだけでなく、世界中に知らせた。彼はカポエイラに思想や信念、理念や理想、哲学や教えなどを示した。彼は現代社会に多大な影響や評価を与えた。
レガシー
メストレ・ビンバの業績や遺産は今もなお生き続けている。彼の息子であるメストレ・ネネルや娘であるドナ・ナルビーニャなど、彼の家族や弟子たちは彼のカポエイラ・ヘジオナウを教え続けていて、彼の名前や顔はカポエイラの本や映画や音楽などに登場している。彼の誕生日である11月23日は「カポエイラの日」としてブラジルで祝われており、いまだ彼の道場や墓地はカポエイリスタたちの聖地として訪れられている。彼のカポエイラ・ヘジオナウは世界中に広まっており、多くの人々に愛されていて、彼はカポエイラの歴史や文化に不可欠な存在、彼はカポエイラの伝説である。
まとめ
メストレ・ビンバは、ブラジルのサルヴァドールで生まれたカポエイリスタで、カポエイラ・ヘジオナウという新しいスタイルを創始し、発展させたカポエイラ界の歴史に残る人物。カポエイラを教育や社会貢献の手段として使うことで、彼はカポエイラを合法化し、普及させることに成功した。そのカポエイラはブラジルだけでなく世界中に普及させ、カポエイラの思想や信念、理念や理想、哲学や教えなどを示した。
この伝記では、メストレ・ビンバの生涯と業績を時系列に沿って詳しく紹介した。彼がどのようにしてカポエイラ・ヘジオナウを創始し、発展させたかを分析し、また、彼が表現した思想や信念、理念や理想、哲学や教えなどを示した。
以下の記事を読むと、さらに詳しくメストレ・ビンバやカポエイラ・ヘジョナウについて学ぶことができる。
-
Mestre Bimba(メストレ・ビンバ)の写真集
メストレ・ビンバに関して詳細な解説記事はこちら↓
続きを見る
-
図解 メストレ・ビンバのセクエンシア (Sequência do Mestre BIMBA)
ブラジルの歴史や文化に息づくカポエイラは、音楽とダンスと格闘技が一体となった独自の芸術。そのカポエイラ界において、革命的な存在となったのが「Mestre Bimba」である。彼はカポエイラの伝統を守り ...
続きを見る
参考文献
この伝記を書くにあたって、以下の文献やウェブサイトを参考にしました。これらの情報源は、メストレ・ビンバの人生や業績、思想や信念、理念や理想、哲学や教えなどに関する詳細なデータや分析を提供してくれました。また、カポエイラの歴史や文化、カポエイラ・ヘジオナウの特徴や方法論などに関する有益な知識や教訓を伝えてくれました。これらの情報源は、メストレ・ビンバの伝記を書く上で欠かせないものでした。
参考にした文献やウェブサイトは以下の通りです。
1 Manuel dos Reis Machado - Wikipedia. (n.d.). Retrieved April 19, 2023. このウェブサイトは、メストレ・ビンバの人生や業績に関する基本的な情報を提供しています。彼の生い立ちや家族、カポエイラ・ヘジオナウの創始や発展、カポエイラの合法化や普及などについて説明しています。また、彼の死因や墓地、家族や弟子などについても触れています。
2 Mestre Bimba – Capoeira Online. (n.d.). Retrieved April 19, 2023. このウェブサイトは、メストレ・ビンバのカポエイラ・ヘジオナウに関する詳細な情報を提供しています。彼がどのようにしてカポエイラ・ヘジオナウを創始し、発展させたかを分析しています。また、彼がカポエイラに新しい動きや方法論を加えた理由や目的、彼がカポエイラに示した思想や信念などについても説明しています。
3 Mestre Bimba biography | Last.fm. (n.d.). Retrieved April 19, 2023. このウェブサイトは、メストレ・ビンバの音楽活動に関する情報を提供しています。彼がカポエイラの音楽や歌を作ったり演奏したりしたことについて紹介しています。また、彼が録音したアルバムや曲などについても触れています。